窯主エッセイ
色絵の起源について思うこと PDF 印刷 Eメール
作者: 青木 清高   
2015年 3月 02日(月曜日) 08:28

有田の西部山辺田窯跡遺跡周辺では、発掘調査がまた始まり色絵の起源をめぐり全国の焼き物ファンの注目を浴びています。
今回は色絵磁器辺から、赤絵窯外壁の遺物辺、さらには、お手本にしてたと思われる中国景徳鎮の最高級磁器、様々なことが明らかになり新しい歴史の発見へとつながってゆくと思われます。400年もの間、焼き物の歴史、窯の煙突を守り続けるということは、人ひとりの力ではとても無理だとしみじみ感じてしまいます。

ここに、色絵にまつわる2枚の写真があります。

私が住む外尾山地区でも、同じころ色絵を生産していました。古い写真がないので、明治40年ごろの写真で1600年代を空想してください。(実は家屋の数もあまり増えてなく変わりないかも知れません。)

 

今の山辺田窯を中心とした有田西部地区から、えり抜きの色絵の巧を集結させて、寛文年間に赤絵町が作られたそうですが、そのことを実証する赤絵町という地区名がきざまれた報恩寺の鐘が、軍事供出される際に撮影されたとみられる写真です。(この鐘は後に戻ってきたそうです。)

 

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最終更新 2015年 3月 02日(月曜日) 08:31
 
よみがえれ、外尾山青磁 PDF 印刷 Eメール
作者: 青木 清高   
2015年 1月 04日(日曜日) 15:22

皆さん、明けましておめでとうございます、お正月どのようにお過ごしでしたか?本年もよろしくお願いいたします。

私は、最近になって外尾山青磁の美にやっと気が付き始めました。天然の青磁石による発色は、何物にもたとえようがないほど深く、美しいものです。
私が住む地区にある外尾山は、1600年代中ごろより幕末明治にかけて、数多くの青磁が生産された場所です。特に有田で技術革新があった1637年頃より外尾山でも李朝の陶工とは別に明の陶工の影がちらつきます。青磁の作品の数がおびただしくしく増え始めたのもその頃からです、外尾山窯だけでは生産が追いつけなくなり、ひと山越えた丸尾地区でも、外尾山の人たちが関係していたと思われる窯が稼働し始めました。

青磁の山と言っても過言ではないのです。では、いったいどこからそれだけの量の青磁釉の原料を調達したのでしょうか?有田では泉山地区にある青磁谷が有名ですが、自分は青磁谷以外で、この外尾山周辺に、明治まで掘られていた場所があるんではないか?などと勝手に想像するのですが地区の古老に聞いても既にご存知の人は亡くなって、安政の絵図を頼りに自分の足で探すしかありません。この不景気の中ゆっくりした時間も少ないのにそこまでしなくてもいいのかも知れませんが、この陶片は、旧青木兄弟商会(現在の防災広場)の整地をされるときに出てたものらしいです。今は私の轆轤場で、眺めながら日ごと夜毎に夢を膨らませています。

 


■写真 (1600年中頃)

 


■写真 (幕末~明治頃?)

 

私には作陶する上でお世話になった峯村三秋と言う先生がおられました。この先生は佐賀県窯業試験場で長い間勤務された方で大正生まれの頑固な先生でしたが美に関する感性では私と共通するところがあり、必要以上に人を褒めることもされず、上にも下にもこびない先生の言葉にどんどんと吸い込まれて行きました。その先生の言葉の中に、「天然の材料を使ったものに勝つものはない、沢山焼き物が並んだ時にそれは分かる。焼き物は正直だから、自分が勉強した以上の物もできないが、それ以下の物もできない」この言葉が20年経った今も心に響いています。

 

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